日本の鉄道のゲージについて


 日本では、鉄道路線の建設形態などにより、様々な軌間(トラックゲージtrack gauge)が使われている。ここでは、軌間(以下ゲージと呼びます)について述べなが ら鉄道の線路について書いて行きたいと思います。
 国際的な「標準軌」と呼ばれるゲージは1435mm。この幅は古くはローマ帝国の馬車の 車輪の幅に始まります。これが後にヨーロッパで馬車鉄道として発達し、その軌道を利 用した鉄道線が形成されていきました。
 蒸気機関車の父と言われるイギリスのジョージ・スティ−ブンソンが1825年に「ロコ モーション」号を完成さた当時、イギリスではいろいろなゲージが使用されており、お 互いの鉄道の乗り入れには困難をきたしていました。スティーブンソンが技術者として 働いていた炭鉱鉄道が1435mmのゲージだったことからイギリス議会で討論の末、1846年 にこのゲージをスタンダードゲージ=標準軌とすることが決ったのでした。
 日本では、明治5年に新橋=横浜間の鉄道をひく際、1067mmのゲージが採用されまし た。このときなぜ「標準軌」である1435mmを採用しなかったのかについてはいろいろな 節があるが、当時外国の鉄道などをまったく知らなかった日本の高官たちは、「中間」 のゲージを採用すればそれが標準なのだろう。という考えからか762mmゲージとの中間 である1067mmナローゲージを採用したと言われています。これはケープタウンゲージの 呼ばれ、名前のとおり南アフリカのケープタウンの鉄道に使われたもので、南アフリカ 連邦では現在もこのゲージを使用している。このほか、台湾国鉄・フィリピン・ニュー ジーランド等でも使用されている。近いゲージとして、タイ・ビルマなどの東南アジア で1000mmゲージが使われており、タイ国鉄で旧国鉄の蒸気機関車が走ったこともある。 (現在大井川鉄道で使用されているC56 44号機はタイから復員してきた機関車で す)
 ゲージは、標準軌である1435mmより広いものを広軌、狭いものを狭軌と大きく分類し ます。実際、全世界の鉄道のゲージを割合で示すと、標準軌が約7割をしめています。 その意味では日本のゲージはめずらしいものとも言えます。日本でも初めから標準軌で 作られた鉄道は多くありました。しかし、戦中戦後にかけて、鉄道の買収や資本集約な どが行われ、その際にばらばらだった軌間が統合されたりして現在のような1067mmゲー ジが大半をしめる状況を作り出しました。反対にかつて狭軌だった鉄道が後に標準軌に もどった鉄道もあります。
 関東の私鉄・公営交通を例に、ゲージ別にわけると下のようになります。
1435mm・・・・京浜急行・京成・新京成・北総開発・住宅都市整備公団・都営地下鉄1号線
          ・営団地下鉄丸の内線・銀座線・横浜市営地下鉄・箱根登山鉄道
1372mm・・・・京王(井の頭線を除く)・都営地下鉄10号線・都電荒川線・東急世田谷線
1067mm・・・・東武・西武・東急・小田急・京王井の頭線・相模鉄道・上記以外の都営、営
          団地下鉄・上毛電鉄・上信電鉄・秩父鉄道・総武流山電鉄・銚子電鉄・江ノ
          電・伊豆箱根鉄道
 標準軌の鉄道として京浜急行を筆頭に上げたのは、その他の標準軌の鉄道が形成の途 上でこれにならったものであるためです。京浜急行は関東地方で初めての電気鉄道であ る大師電気鉄道が母体になっており、川崎駅近くの六郷橋から川崎大師までの区間を明 治32年開業したのがはじまりです。このとき、標準軌を日本で初めて取り入れたのが きっかその後の路線延長も標準軌のまま行われた。これがきっかけで現在も標準軌のま まで運転されているわけです。しかし、東京電車鉄道(東京市電)に直通を計画してい たため。明治36年(社名を京浜電鉄と改称)に一度東京市電と同じ1372mmに改軌して いる。この1372mmについては後述することにする。湘南電気鉄道として昭和5年に開業 した横浜以西は標準軌で作られ、昭和8年には一度1372mmになった品川−神奈川も再び 標準軌になり、現在の路線とほぼ同じ形態を作り上げたのです。
 湘南電気鉄道が標準軌で建設されたのは、現在の営団地下鉄銀座線の前身である東京 地下鉄道との乗入れが計画されていたためで、同鉄道は昭和9年までに浅草から新橋ま でを開業し、さらに品川までの免許を取得していました。この区間を完成させ京浜電鉄 と直通すべく、京浜地下鉄道を昭和12年に発足しましたが、2年後に新橋−渋谷を開 業した東京高速鉄道が東京地下鉄道と直通することになり、この計画は中止されてしま った。
 その後、この品川−新橋間の路線免許は帝都高速度交通営団(昭和16年に設立)に 譲渡されたが、昭和33年、東京都が都営地下鉄1号線の建設に伴い京浜急行と共に再 び譲渡され、昭和43年に開通。これにより初めて京浜急行の車両が都心に乗り入れる ことになります。
 この都営1号線に乗り入れているもう一つの鉄道である京成電鉄は、当初は前述の 1372mmゲージで建設された。京成も都心への乗入れを計画しており、押上から隅田川を 渡って上野までの路線を計画した。しかし同様に隅田川の手前まで開通していた東武鉄 道と免許を競願する形になり、この区間は東武鉄道が浅草までの免許を得ることになっ た。
 京成押上線は、上野線の開通と共に1支線に格下げされました都営1号線の建設計画 に伴って押上から同線への乗入れることになり、京成は大手私鉄としては異例の全線改 軌をすることになった。これに伴って、資本的に子会社であった新京成電鉄も改軌する ことになっている。新京成は大元をたどると明治29年に作られたナローゲージ762mm の軍用鉄道が発端で、戦後民間鉄道として使用するため1067mmに改軌して再建設。さら に、当時の京成のゲージである1372mmにもなっているので、現在国内で使用されている 全てのゲージを経ていることになる。
 さて、東京オリジナルゲージとも言える1372mmのゲージはというと、これは馬車鉄道 の名残なのです。電車が走り出す前、東京では馬車鉄道として馬が客車をひいて走って いました。この軌道を使って電車を走らせたのが前述の東京電車鉄道(以前は東京馬車 鉄道)、後の東京市電=都電になります。路面電車として発達したこの鉄道と乗り入れ るため、都心へ向かおうとした各鉄道は1372mmゲージほ採用したところが多かった。前 述の京浜・京成もその内にはいります。他にも、玉川電気軌道・現在の東急世田谷線と 渋谷−二子玉川園を結んでいた玉川線や、王子電気軌道・現在の都営荒川線の一部、さ らにはかつての横浜市電や現在の箱根登山鉄道も建設当初はこの1372mmゲージを使用し ていた。
 現在の京王線の前身である京王電気軌道もその1つで、新宿から府中までを大正4年 に完成している。完成当時は甲州街道などの路面併用区間も多く含んでおり、新宿では 国鉄新宿駅を越え、現在の伊勢丹デパートの付近をターミナルとして東京市電と乗り入 れていた。
 府中から先は別会社として玉南電鉄を設立し、建設も「地方鉄道法」を適用して免許 を出願した。地方鉄道法で出願すると地方鉄道補助法による国からの補助が受けられる ためだったのですが、当時地方鉄道法で1372mmのゲージは合法でなく、やむをえず1067 mmにより建設した。しかし、平行する国鉄があることもあり玉南電鉄には補助金がおり ず、結局京王電気軌道に合併され、全線1372mmに改軌された。これが現在まで京王線を 1372mmにしている大きな原因といえるでしょう。
 京王線も他の私鉄と同様に都心に乗り入れる計画をしていましたが、都営地下鉄10 号線の建設に伴い京王線も乗り入れることになりました。このとき、都側は1435mmゲー ジを提案しましたが、京王線がすでに輸送力の問題から改軌ができないなどの理由から 都営地下鉄10号線も1372mmに同調することになった。当初都が予定していた千葉県側 での成田新線との直通はこれにより無いものになったと言って良いでしょう。
 前述の地方鉄道法も日本の鉄道の1067mmゲージ標準化を促進したと言えます。地方鉄 道法は戦前鉄道網が未完成だったため、私鉄による鉄道の建設を推進する意味で国が保 護すると言うものでした。戦前は1067mm・762mmゲージだけを地方鉄道としており、その 他のゲージは軌道法によるものとなった。地方鉄道法で建設された鉄道は国鉄との乗り 入れも可能になり、戦前戦中に国鉄に買収された鉄道もほとんどが地方鉄道法によって 建設された鉄道でした。(なお、昭和62年の国鉄民営化により、地方鉄道法は日本国 有鉄道法が1つになり、鉄道事業法と名前を変えています。)
 地方鉄道法により敷設された鉄道はゲージが1067mmで、その中でも国鉄線と接続して おり重要な路線について国が買収したわけです。関東では青梅鉄道(現在の青梅線)や 軌道法で作られ後に1067mmに改軌した鶴見臨海鉄道(同鶴見線)などが有ります。
 この目的は資本集約のほか軍事物資の調達を安易にするなどの目的があったためです が、これと時期を同じくして東京の私鉄も資本集約が行われました。これを文書によっ ては「国策」と書いたものもあるのですが、実はこのときの運輸通信大臣が東急の親頭 であった五島慶太であることは付足する必要があるでしょう。
 東急=東京急行電鉄の前身である東京横浜電鉄は昭和17年に京浜電気鉄道・小田急 帝都電鉄を合併し、社名を東京急行電鉄に改名しました。、さらに昭和19年には京王 電気軌道も合併しました。これにより東急は3つのゲージ(目蒲・大井町・東横・池上 ・小田急帝都の1067mmと玉川・京王の1372mm、京浜の1435mm)を持つことになり、この ゲージの違いに架線電圧の違いを分けて車両形式を改番している。
 大戦後、GHQから公職追放に指定された五島慶太は東急を去り、昭和23年には戦 中に合併された私鉄を再編成して独立することになった。小田急電鉄・京浜急行電鉄・ 京王帝都電鉄の3つに分離独立したわけですが、ゲージや合併時の形態からして、旧帝 都電鉄である井の頭線は小田急に編成されて当然のはずが京王に編入されたのは、当時 の京王線は自主採算が難しいと見られたためだ。と東急50年史に書かれている。
 参考までに、前述の戦中東急が各私鉄を吸収合併したときの車両番号も独立した各社 にそのまま割り振られて使われたものが多くありました。当時の番号は、玉川線(軌道 線)が0番台・小田急が1000番台・旧京王が2000番台・旧東横が3000番台(電圧が小田 急と違った)・京浜が5000番台となっていました。現在ものこるものとしては、東急世 田谷線(旧玉川線の一部)で70形・70形が、東急長津田工場の入れ換え用として3450系3 499が現役として当時の番号を残しています。他の私鉄でも最近まで残っていた旧形車 にはその名残があり、小田急の旧形車で旧国鉄から払い下げを受けた1800系(去年まで 秩父鉄道800系で余生を送っていた)や京王の旧形各車(伊予鉄道などで現役)も最近 まで2000系を名乗っていました。京浜急行は独立当時番号から5000を取ったため、旧形 車は3桁の番号になっていましたね。高松琴平電鉄には京急のお古がたくさん走ってい ます。戦前の名車1形=京急230形(東急時代は5230形)は長尾線・志度線系統で30形と して現在も元気に走っています。同電鉄には1000系(1080形)のほか往年の快速特急 600系も6両譲渡されています。
 この車両譲渡もゲージと深く関係するのは納得できることでしょう。高松琴平電鉄は 1435mmですから、京浜急行の車両を譲り受けるには好都合(さらに京急は車体の長さが 18mと少し短いことも関係する)です。ゲージの違う会社に譲渡するとなると、台車 を交換しなければならず余計な経費がかかってしまうわけです。

と、書きおわってみると京浜急行と京王帝都の路線形成を説明したような文書になっ てしまいましたね。簡単に書いてしまえば、関東初の電車を走らせた京浜急行が標準軌 で開業したこと。そして、東京市電が馬車鉄道の軌道をそのまま使ったことが現在のゲ ージの元になった。ということですね。
 関東以外の私鉄で1067mmゲージ以外を使っているところをちょっと上げてみると、名 古屋地区では名古屋市交通局の地下鉄のうち、比較的新しい鶴舞線(名鉄豊田線と相互 乗入れ)を除いて1435mm、近鉄の四日市周辺を走る内部・八王子・北勢線ではいまはめ ずらしくなってしまった762mmのナローゲージの上を電車が走っています。このゲージ は前述の軽便鉄道のもので、去年末で廃止になってしまった下津井電鉄もこのゲージで した。ほかに黒部峡谷をはしる山岳鉄道の黒部峡谷鉄道も762mmゲージです。こちらは 電気機関車が客車をひいて走っています。関西は1435mmが主流になっており、京阪・阪 急・阪神と近鉄の東大阪線系統を除く各線・さらには京都・大阪の地下鉄や阪神・阪急 と乗り入れる山陽電鉄や神戸高速(神戸電鉄のと乗り入れる南北線は1067mm)・大阪で 唯一残った路面電車の阪堺電軌も1435mmです。近鉄の南大阪線系統と南海・神戸電鉄は 1067mmを採用しています。これより西では、広島電鉄と四国の高松琴平電鉄、西鉄は一 部支線を除いて1435mmです。
 時間があったらこういったものの一覧も作ってみたいと思っていますが、なにしろ数 が数ですから、できたらまたアップしたいと思います。

   S.F


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